LOGIN「抱かせてって、言ったの。私、言ったのに。兄さんが、駄目だって。あの子は……」
呼吸が乱れた。 医師が一歩近づく。 看護師が酸素の流量を確認した。 私は、手を離すべきか迷った。 葵さんの指が、私の指を引っかけるように握っている。 触れている指の重みだけが、妙にはっきりしていた。葵さんの指が離れないことを、私は手のひらで確かめていた。 離せば安心するのか、置いていかれたと思わせるのか、分からない。「ここにいます」 自分がここにいていいのか、まだ決められないままで。 口から出た声は、ほとんど自分に言い聞かせるようだった。「今は、どこにも連れていかれません」 葵さんが、目を細める。 聞こえたのかどうかは分からない。 乱れていた呼吸が一つだけゆっくりになった。「連れて……」 葵さんは、その言葉だけを拾った。「抱いたら、連れていかれる会話が途切れると、空調の低い音が聞こえた。 葵さんの声は、ほとんど息だった。医師が彼女の脈拍を確認し、看護師がモニターの数値へ目を走らせる。誰も急かさない。けれど、病室の空気だけが、細く張りつめていく。 私の右足首。 普段なら、何も考えずに靴下やストッキングで隠れている場所だ。生まれつきある小さな痣。子どもの頃は、そこに触れられるのが嫌で、体育の着替えの時に足を引っ込める癖があった。 未央には笑われた。 汚れみたい、と。 静江さんだけが、違う名前をくれた。 桜のかけら。 私は椅子の端に座り直した。膝の上に置いた手が、少し震えている。「無理に見せなくても」 律の声が、低く落ちた。 止める言葉ではなかった。 ただ、いつでもやめていいと伝える声だった。 私は首を振った。「見せます」 声は小さかった。「でも、確認のためだけにします。葵さんが苦しくなったら、すぐやめます」 医師が頷いた。「その条件でお願いします。九条さん、朝霧さんの足首を見ます。つらくなったら、目を閉じてください」 葵さんは返事をしなかった。けれど、まぶたがゆっくりと閉じて、また開いた。 私はパンプスを脱いだ。 床の冷たさが、ストッキング越しに足裏へ伝わる。こんな場面で、靴を脱ぐ音がやけにはっきり聞こえるのがおかしかった。かかとを抜く時の小さな擦れ。スカートの裾が膝に触れる感触。ストッキングの端を少し引く動作。 どれも、ただの動きのはずなのに、ひとつずつ戻れない場所へ進んでいるようだった。 右足を少し横へ出す。 足首の内側。 骨の少し上に、小さな薄紅色の痣がある。 花びらというには、形は曖昧だ。肌の上に、偶然色が残ったような、小さな跡。けれど、子どもの頃から消えなかった。 葵さんの目が、そこへ止まった。 次の瞬間、モニターの電子音の間隔が、少し短くなった。「葵さん」 医師がすぐに声をかける。 葵さんは、目を閉じなかった。 た
それでも、言わずにはいられなかった。「会えるように、ちゃんと手続きをします。だから、今は」 続きが声にならなかった。「眠ってください」 葵さんは、しばらく私を見ていた。 焦点は少し合っていない。それでも、目の奥だけが何かを探している。「あなた」 小さな声だった。「足」 誰も口を開かないまま、椅子の脚が短く床を擦った。「足?」 思わず聞き返す。 葵さんの指が、シーツの上でかすかに動いた。「右……足首」 心臓が、一度だけ強く鳴った。 看護師が葵さんの手を押さえようとして、止まる。医師は慎重に様子を見ていた。「そこに、あるの」 葵さんの目から、涙がこぼれた。「小さい、花びらみたいな、痣」 息が止まった。 右足首。 その場所を言われた瞬間、自分でも忘れていたところが急にはっきりした。 ストッキングの下、靴の履き口より少し上。普段は自分でも忘れている。けれど、子どもの頃は何度もそこを見られた。 夏の水遊びで未央に笑われた。体育の着替えでは虫刺されかと聞かれた。 静江さんだけは「桜のかけらみたいだね」と言った。あの声まで、足首の皮膚の内側から戻ってくる。 私は靴の中で右足の指を曲げた。痣そのものは見えない。それでも、場所だけは急にはっきりした。 看護師がモニターを確認し、何も言わずに私へ視線を戻す。急かされてはいないのに、呼吸だけが浅くなった。 どうして。 どうして、この人が知っている。 カルテには書かれていたのかもしれない。 写真に残っていたのかもしれない。 静江さんの手紙にも、もしかしたら、私が気づかなかっただけで何かがあったのかもしれない。 理屈は、いくつも並べられる。 けれど、今の葵さんの声は、記録を読んで知った人のものには聞こえなかった。 眠りから浮かび上がる途中で、どうしても手放せなかったものを探す声だった。 赤ん坊の
「抱かせてって、言ったの。私、言ったのに。兄さんが、駄目だって。あの子は……」 呼吸が乱れた。 医師が一歩近づく。 看護師が酸素の流量を確認した。 私は、手を離すべきか迷った。 葵さんの指が、私の指を引っかけるように握っている。 触れている指の重みだけが、妙にはっきりしていた。葵さんの指が離れないことを、私は手のひらで確かめていた。 離せば安心するのか、置いていかれたと思わせるのか、分からない。「ここにいます」 自分がここにいていいのか、まだ決められないままで。 口から出た声は、ほとんど自分に言い聞かせるようだった。「今は、どこにも連れていかれません」 葵さんが、目を細める。 聞こえたのかどうかは分からない。 乱れていた呼吸が一つだけゆっくりになった。「連れて……」 葵さんは、その言葉だけを拾った。「抱いたら、連れていかれるって。兄さんが。あなたが見ると、離せなくなるって」 背中に冷たいものが走った。「離せなくなる」という言葉だけが、耳に残った。康生さんの声で言われた気がして、胃の奥が冷えた。 私は康生さんの顔を思い出した。 柔らかい声。整った笑み。こちらが怒れば、怒る方がおかしいように見せる目。 その人が二十四年前、このベッドの上の女性から赤ん坊を遠ざけていたのだとしたら。 手が震えた。 でも、葵さんの手を強く握り返すことはしなかった。 私の怒りで、この人の手を痛くしたくなかった。 医師がすぐに手で合図する。「ここまでにしましょう」 私は頷いた。 もっと聞きたかった。 聞いてしまいたかった。 高瀬さんの手元には、録音機ではなく面会記録用のメモだけがあった。医師の許可がないまま、証言の録音や聞き取りは行わないと、最初に決めていた。 今の言葉がどう扱われるかは、あとで高瀬さんに聞けばいい。 私は医師の合図に頷いた。
葵さんが、小さく言った。 看護師が私を見る。医師も、かすかに眉を寄せた。 カーテンの内側は静かで、葵さんの小さな声だけがはっきりと聞こえた。 触れていいのかどうか。患者の混乱を増やさないか。そんな確認が、一瞬で交わされる。 私はすぐには動かなかった。「握っても、いいですか」 葵さんに訊いた。 医師でも、看護師でも、九条家の代理人でもなく、葵さんに。 葵さんは答えなかった。 ただ、シーツの上で指を開いた。 私はゆっくり近づき、ベッドの横へ立った。 手を握るというより、触れた指をそっと受け止める。 軽かった。 驚くほど。 その軽さに、二十四年という時間の重さだけが遅れて押し寄せた。「痛くないですか」 葵さんは小さく首を振った。 その動きが、子どものように頼りなく見えて、胸が痛んだ。 この人は母かもしれない。 でも、その前に、助けを必要としている人だった。「……車」 葵さんが呟いた。 看護師が顔を近づける。「車が、怖かったですか」 葵さんは答えない。 目を閉じ、まつげを震わせる。「暗い、道」 私は葵さんの手元を見た。「揺れて……声が、した」 誰もすぐには口を挟まなかった。 医師も、看護師も、記録を取る高瀬さんも、葵さんの呼吸を見ている。「赤ちゃんの」 葵さんの目元に、涙が滲んだ。「泣く声」 医師がモニターへ目をやり、看護師が葵さんの肩を支え直した。「小さいのに、強くて」 葵さんの指が、私の指を探すように動いた。「私、笑ったの。泣いてるのに、笑って……元気だって思った。生きてるって」 言葉は途切れ途切れだった。 時間の順番も、場所も、曖昧だ。 けれど、そこに嘘の整い方はなかった。 思い出すというより、
その呼び方を、私はすぐには自分へ向けられたものだと思えなかった。 葵さんの声は、とても小さかった。 ワゴンの音は遠く、ここまで届く頃にはかすかな震えに変わっていた。 処置室の機械音に紛れてしまいそうなほど細い声だったのに、私の耳には妙にはっきり届いた。 看護師がすぐに葵さんの肩へ手を添える。「九条さん、分かりますか。ここは病院です。事故に遭われましたが、命に別状はありません」 葵さんは看護師を見ていない。 目は、私の方へ向けられたままだった。 その目に、私は映っているのだろうか。 それとも、二十四年前の病室が映っているのだろうか。 私は一歩も動けなかった。「朝霧さん」 高瀬さんが横から小さく呼ぶ。 医師もこちらを見た。 会話を続けるかどうかを私に委ねているわけではない。患者の反応を見て、必要ならすぐ止める。そのための目だった。 私は一度、息を整えた。「朝霧栞です」 それだけ言った。 母かもしれない人に、何と言えばいいのか分からなかった。 娘です、とは言えない。 あなたの子です、とも言えない。 娘です、と言えば早かった。けれど、その言葉は喉まで来て止まった。「朝霧栞です」 もう一度、同じ名前を言った。今はそれ以上が出なかった。 もしこの人が本当に母なら。 そう考えた瞬間、胸のどこかが先に縋ろうとする。 でも、縋ったら、今度はこの人を縛る。 私は自分の手を握り直した。 葵さんの眉が、寄る。「しお……り」 音を確かめるような呼び方だった。 胸の奥が痛む。 私の名前を、こんなふうに初めて呼ぶ人がいる。 それだけのことなのに、膝の力が抜けそうになった。「無理に話さなくて大丈夫です」 私が言うと、葵さんの目元が小さく揺れた。「無理……」 言葉を繰り返す。 その意味を確
高瀬さんは短く頷いた。「九条康隆氏の代理人が、転院を認めない意向を病院側に伝えています。医師の判断なしに移せません。こちらからも、安全確認と記録保全の文書を提出します」「文書」 高瀬さんは鞄を開きながら答えた。「今、紙で出します。電話だけでは、あとで消えます」 プリンターもない廊下で、どうやってと思った。 私が周囲を見回すより先に、相良さんが駐車場へ戻った。 数分後、相良さんが小型のモバイルプリンターを持って戻った。 白い紙が一枚、機械からゆっくり出てくる。 その薄さが、今は頼もしかった。けれど、紙が出るのを見届けた途端、ひどく情けなくもなった。二十四年ぶりに母かもしれない人と会うのに、私たちがまず頼るのは、この頼りない白い一枚なのだ。 相談室の扉が開いたのは、それから二十分ほど後だった。 高瀬さんと九条側代理人、そして白衣の医師が出てくる。 私は立ち上がった。 立ち上がった拍子に、椅子の脚が床を擦った。「九条葵さんは」 名前を出した瞬間、医師の表情がわずかに硬くなった。 それでも、彼は慎重に言った。「患者さんは意識を取り戻しつつあります。外傷は軽度です。ただ、強い混乱があります。面会は、医療上の判断で短時間のみ。ご本人が拒否された場合は即時中止です」 短時間。 即時中止。 その条件が、むしろありがたかった。 葵さんは、私が会いたいから会わせられる人ではない。「……その条件で、お願いします」 私は答えた。「無理はさせません」 言ってから、自分の声が固いことに気づいた。 医師は、私を一瞬だけ見た。 患者の親族かどうかまだ確定していない女を、どう扱うべきか迷っている顔だった。 九条側代理人が横から言う。「康隆様より、朝霧栞様の短時間面会について同意を得ています。患者ご本人の反応を最優先する条件で」 医師が頷く。 廊下を進む間、足音がやけに大きく聞こえた。 個
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「